国や地域によって起源はさまざまですが、大まかにいって合唱という行為は即興から生じたと考えられていますが、多くはユニゾン(同音合唱)です。その中から即興的に多声合唱が生まれたようです。つまり、その場のセッションとして多声が生じるというのは、現代のイメージでいえば即興でハモるようなもの。即興とはいってもある程度の「型」はあり、それが地域・民族の音楽ごとに定型化していったと考えられています。なかでもヨーロッパの音楽史は特殊な道を歩みました。それは定型化された合唱を楽譜に書き留めるようになったことが大きな理由で、その結果、さらに複雑な多声曲が生み出されることになったのです。
その理由を科学的に解明するのは脳科学や心理学などの領域になると思いますが、ここでは私の研究をもとに、経験的なお話をしたいと思います。
歌を共にするということは、まず「リズム」を合わせる共同作業です。「1、2、3、4」という拍子カウントを揃えなければ、合唱は成り立ちません。行進する時のことを思い浮かべてみてください。一人で歌う・歩くのと、みんなで揃えて歌う・歩くことは異なりますよね。リズムを合わせるためには、他の人に合わせなくてはならないことから「一緒に行動している」という実感が生まれていくのだと思います。そのため、「心がひとつになる」あるいは「一体化する」ように感じられる、と言えるでしょう。
「合唱」と「合奏」には違いがあると考えています。まずは、合唱についてお話ししますね。
複数の人がパート毎に分かれて異なる旋律を歌う「合唱(多声合唱)」では、ハモる時に相手のメロディにつられる、引きずられるという経験をしたことはありませんか? つられずに自分の旋律を歌うためには、相手の声を聴きながら、自分の声をコントロールする必要があります。しかし、ボーカルとコーラスが同じ旋律で歌う「ユニゾン合唱(斉唱)」の場合には、このようなコントロールの必要はありません。自分に自信がなくても、他人の旋律に何となく合わせて歌うこともできます。同じ合唱であっても、意識してみんなと合わせることが必要な「多声合唱」と、意識しなくても自然と合わせられる「ユニゾン合唱」とでは、後者の方が一体感をもたらしやすいと考えます。なぜなら、ユニゾン合唱は、練習なしにその場で成立できるからです。スポーツ観戦中に自然発生的に歌われる応援歌がその代表といえるでしょう。
一方、楽器による「合奏」は、歌のように旋律につられることはありません。理由は、楽器の操作で解決できるから。合奏は楽器の音を合わせる行為なので、ユニゾン合唱で得るような一体感とは異なります。
スポーツ観戦の応援席で見られるようなシンプルなユニゾン合唱は、その傾向が強いと思います。ただ、それは楽曲そのものの魅力だけではなく、競技中のこういうシーンではこの曲を歌うといった「作法」を知っているファンの団結意識によるものかもしれません。音楽ライブでも同様で、この曲のこの部分はファンも一緒に歌うという「参加の仕方」を知っていることが、協調性を高める要因のひとつといえるでしょう。
学校での合唱コンクールを経て、クラスがまとまるというようなことはあり得ます。それは長い時間をかけて練習を重ね、その成果を実感できるようになると、同じ目標に向かって「心がひとつになる」と感じることもあるのではないでしょうか。さらにコンクールで上位になれば、クラス全体で喜びを分かち合い、人間関係が好転することも期待できるかもしれません。
個人的には、ミュージカルのアンサンブル場面に「歌のチカラ」を感じますね。物語の中で人々が団結あるいは対立するような場面(革命の場面など)は、個人の歌い手よりも集団の歌唱の迫力を感じますし、それが物語の説得力になっていると思います。